となな会の新年の行事である七福神巡り、今年は下谷と決まった。歩く距離は3kmと、近在の七福神巡りの中では最も短い部類に入る。歳を考えれば妥当な選択である。
1月6日、JR鴬谷駅北口に13時、集合する。参加者は関原、知久、羽佐間夫妻、三宅、山賀、杉本(山懸の友達)の7人である。天気は晴れ、しかし、かなり寒い。風が無いのが幸いである。
最初の神社は駅のすぐ近くの「元三島神社の寿老人」である。ラブホテルや飲食店に囲まれた環境で、ちょっと驚く。30段ほどの石段を登り、茅の輪を潜って拝殿へ進む。この神社は元寇の弘安の役で功を立てた河野通有が伊予国大三島神社から当地に分霊を勧請して創建されたもので、徳川時代に浅草に遷座されたが、地元氏子の協議で当地に元三島神社を祭った。社殿は昭和33年に再建された神明造、本殿の中に寿老人は居た。寿老人は延命長寿の中国の神である。
その後、昼食タイムとする。言問通りに面した台湾料理「桃園」で取った。比較的空いていて7人纏まったテーブルで各自好きなものを注文、ビールで新年の祝杯を挙げた。
次は、「入谷の鬼子母神の福禄寿」である。「恐れ入谷の鬼子母神」の諺に謳われたお社はそれほど広くは無い。毎年7月に開かれる朝顔市でも有名である。その境内に福禄寿をお祭りしているお堂があった。お像は高さ60cmほどの木像である。福禄寿は中国の道士、短身で長頭で、人望福徳の神である。
次は、徒歩3分ほどで、「英信寺の大黒天」をお参りする。英信寺は浄土宗のお寺、1596年に創建されたという。大黒天は本堂の左側の建物に安置されている。この大黒天は「三面大黒天」と呼ばれ、右に弁財天、左に毘沙門天の3つの顔を持つ珍しいものだ。従って、手も6本ある。弘法大師真作と伝えられる。
次は、やはり徒歩3分の近さで、「法昌寺の毘沙門天」である。しかし、ちょっと道を間違え、「小野照崎神社」にお参りしてしまった。小野篁を祭っている神社で「下谷八社巡り」がある。この境内を通りぬけると、法昌寺があった。この寺は法華宗本門派で1648年の創建。毘沙門天は正面のお堂に祭られていた。その昔、日蓮上人が開眼したと伝えられる。高さ1.2mほど、勇気授福の神である。この寺の入り口には、珍しい寒桜が満開だった。
次は、「弁天院の朝日弁財天」である。昭和通りを越えて15分も歩いただろうか、公園の一隅に弁天院はあった。備中松山藩主が、上野の不忍池にある弁天堂を作る時、自己の下屋敷内にも弁天様を祭り、上野が夕日弁天、こちらを朝日弁天と呼ぶようになったという。弁財天は琵琶を片手に、お堂の中央に鎮座していた。弁財天は芸道富有結縁を授ける神様として知られる。弁天院の前にはテントがあり、地元の人の熱い福茶接待を頂いた。
6番目は「飛不動の恵比寿」である。約15分ほどの距離にある、飛不動尊・正宝院の境内に恵比寿様は鎮座していた。飛不動の由来は、昔、住職が不動を担いで奈良県大峰山に修行に出掛けた所、一夜にしてお不動様が江戸に飛び帰り、氏子に御利益を授けたという故事から来ているという。飛不動の参道には長い提灯が2段にわたって飾られ賑やかである。吉原遊郭が近いためかも知れない。恵比寿様は小さなお堂に安置されて、大きな鯛を抱えていた。商売繁盛・敬愛富財の神様として親しまれている。七福神の中で唯一の日本の神様である。
飛不動の近くに、樋口一葉の「一葉記念館」がある。見学して行こうと考えたが、今日は月曜日で休館、建物の外観だけ見て、次のお寺に回る。
最後は、「寿永寺の布袋尊」である。ここは浄土宗のお寺で、寛永7年(1630年)の開山という。本堂は20段ほどの階段の上にあり、本堂内に木像の布袋尊が安置されていた。弥勒菩薩の化身といわれる布袋尊を崇敬して庶民の幸福を願ったといわれている。前庭に等身大の石造の布袋が大きな腹を出して、大口を開けて笑っていた。布袋尊は中国に実在した高僧で清廉度量の神として祭られている。
これで、下谷の七福神巡りは終わった。最後の寿永寺から、東京メトロ三ノ輪駅は近い。時間は16時だった。打ち上げに駅の近くの喫茶に入り、ケーキとコーヒーで30分ほど歓談して解散となった。次回の会合は、2月5日(水)17時、ギャラリー白百合に集合する事に決めた。山縣、羽佐間、杉本さん等の絵画を見て会食という段取りだ。
今年の七福神巡りは、歩く距離が短く、腰を痛めている関原君や足を痛め長距離を歩く自信の無い私等もリタイアする事無く、全行程を走破する事が出来て何よりだった。下谷の七福神にお参りする人は、他の七福神巡りと比べて少なかった。(1月6日と遅かった事かも知れない)従って、順路にも七福神の幟旗等が少なく、道に迷う人が多いのではないかと考える。我々の場合は、三宅君が先導して迷う事も無く、スムースにお参りが出来たが、是非、案内標識の増設を望みたい。
鴬谷駅に集合したが、私は初めての下車駅、話に聞くと、「鴬谷」という行政上の地名は無いそうで、江戸時代、この辺は上野寛永寺の所領、寛永寺の住職は京都から皇族が駐在した。その一人「公弁」が「江戸の鶯は鈍っている」と思い、京都から鶯を運ばせて、この地域に鶯を放った。これが鴬谷の由来である。また、上野・根岸・根津は寛永寺領で、数多くの寺院がある。根岸は下町の別荘地、江戸時代は多くの文人が住んでいたという。俳句にも「根岸の里の侘び住まい」と聞いていたので、どんな所かと、非常に興味があった。やはり、ビル群は確かに少ない。まあ、東京の下町といった印象だった。
楽しく七福神巡りが出来て、今年も良い年になる事を期待したい。